Enter The Void

1991, Tokyo. A trader from the country side. Book

利己的な遺伝子

蝉は七年を地中で過ごして繁殖の為だけに成虫となり、醜い羽根をかき鳴らして異性を呼び寄せ、交尾が終わると死を迎えうようにプログラムされているそうです。

あんなにもけたたましくI wanna sleep with you!!!と叫んで騒音を立てるくせに、いざ遺伝子に課せられたお役目が終われば木にとまっていることすらできなくなって最後は床にひっくり返ってあがいて、あがいて、死んでしまいます。

なんて情けないやつよオホホホホと言ったらナウシカに怒られるかな。果たしてナウシカ現代社会に生きていたら蝉やゴキブリにも「やめてー!殺さないでー!」と言うのか。私の虫嫌悪こそが差別主義のナチ的危険思想なのだろうか。監督に解釈を聞いてみたい。

 

そう、「空にはただひとつの太陽があって、そうでなければ闇だと思っている人がいる。そして星でいっぱいの夜に生きている人もいる。」と誰かさんも言っていた。

それはつまり、私がくしゃっと丸めて踏みつけたものや、はたまた映画「SAW」さながらに自ら鎖につながれた足を刃物で切り落としてまで逃げ出したものを「幸福」と呼んで今日もとどまっている人たちがいるかも知れないということ。そうじゃ誰が批判できようか。…って、蝉をディスるのに真面目に引用までしちゃったよ。酔っぱらいは怖いな~。

 

 

そんな生きものたちの生命と言えば、こんな話があった。

関連づけて書くとなにかしらの結びが生まれるかもしれない。

私が知ったのは、こんな物語。

 

 

むかーしむかしあるところに男を惑わす美しいショーガールがおりました。

彼女の元にはその細い腕には持ちきれないほどの贈り物が日夜届けられて、「あわよくば一晩だけでも」と泡の様な夢を見て大金をはたく男たが後を絶たず日夜会場に押しかけていたのでございます。そんな百戦錬磨の美しいショーガールがデヴューして間もないころ、重病を抱えたファンが現れたのだそうな。

 

既に多くの臓器が手術で損なわれていて、頭髪はなく、大好きなショー会場にも短時間しか留まれなかった。病気で来れないときにはSNSを通じて彼女を励まし、病室ではアクセサリーを手作りして手紙を書いた。そんな彼女がデヴューしてもう十年という頃、彼は帰らぬ人となってしまった。それを知った彼女は彼への感謝と祈りを込めたショーを手作りした。ステージにかけてきた彼女が、はじめて堪えきれずに泣いて泣いて泣きながら。

 

 

そのことを知った男たちの多くは悲しんだ。

ある者はより彼女のステージを愛し、ある者は耐えられなかった。そんな無名の大多数の男たちの中にも、彼女に自分が置かれている絶望を告げなかった男たちの中にも、悲しみを秘めながら彼女を応援していた人間は少なからずいるからだ。

 

 

…ちゃんちゃん。残念ながらこの物語には落ちがございません。

出来事について何が正しいのか判断して歴史を重ねていくのは私達自身で、答えが用意されているのは寓話くらいのものよね。

 

蝉は遺伝子の命ずるままに死んでいくけれど、自我のある生きものは違う死に方を選ぶことができる。お互いが今日どこにいて、どこへ行くのか認識して決めることができる。

命の価値を平等に扱ってくれ!という叫びは恐らく実は不明瞭なもので、その叫びの中にすら、"平等"のラインを高く設定するのか・低く設定するのかという問題が残る。

蝉と私達の命は本当に対等・平等に扱われるべきだろうか。

そして、同じ人間同士なら?

 

いつもせっかちな私にしては珍しく回答を出さないままブログを終わりにしたいと思います☆彡眠いね。