Enter The Void

1991, Tokyo. A trader from the country side. Book

片道切符

本日もやって参りました夜寝る前の私の秘めやかな至極の歓びWriting Time.

やるべきことが山ほどあるくせに毎日阿保なことばかり書きやがって…この変態暇人!!!

 

とは言わないで下さいませ…何故なら私、書かないと死んじゃうかツイ廃になるから。

 

 

 

 

先日お気に入りのノート・モレスキンを新調して、ライトブルーの可愛い子を迎えました。2015年に初めて黄色い可愛い子を迎え入れて以来 長年にわたる習慣ですが、これまで雑多な用途でかれこれ15冊近く我が家にいるのではないかな~。

留学先で買った淡い赤いオレンジの可愛い子は宝物です。

 

さて、先日ようやく私が体調を壊していた時期に一番好きな本屋さん(ブッククラブ回さん)で購入したレベッカ・ソルニットの”迷うことについて”を読み終わって、私の短いモレスキン・キャリアの中では最長の抜け書きをしてしまいました。いつか必ずここでも取り上げたいと考えていたのだけど、あまりにも長くって躊躇われていた。

 

けどちょっと頑張って引用するわ。前半部分を。

 

そんなのどかな日々は長くつづくものではない。束の間の永遠のあとで、ものごとは少しずつ壊れ始めた。そこにはひとつとして語るべき物語はない。なぜなら、人間と人間の関係はともにつくりあげて棲むための物語であり、家のようにかくまってくれる物語であるはずだから。 

 

ううむ。

 

人は自分の手で玄関のポーチのブドウの蔓のように絡まりあう二人の運命の物語をつくりあげる。眺望がゆるされている方角へ自分たちを向け、小さな扉では体をかがめ、開かずの窓に佇み、自分の思うの自分の姿がそのまま自分のなかの彼の姿へ映りこみ、そして彼のなかの自分の姿へ映りこむ、そんな、夢想家の吐息の雲に浮かぶ城をくつりあげるのだ。

 

 

その外でまた一人きりになった自分の姿をみつけてしまうのは打ちのめされる出来事だ。また別の家で暮らせるようになるなどとはとても思えない。前のものが小さければ大きすぎ、大きければ小さすぎて思えるし、眠りながら歩けるくらいに曲がり角や階段の隅まで体がすっかり覚えているならば、そして無から家と呼べるものをつくりあげたのであれば、それをもう一度築くことは考えることも難しい、しかし、火を灯して燃やしてしまったのは自分自身だ。 

 

 

私達の人生の隔たりを表現する為にこれ以上付け加えることがありますでしょうか。

今日までの人生で何度望もうと望まざると隔たってきたのだろうか、と別離と時の流れを思わずにはいられないではないですか。そのひとつひとつの決断や過程の価値、そして喪失の寂しさを思わずにはいられないではないですか。私は遥か外国を思います。

 

今日は来月参加する読書会の日に合わせて、かねてからずっと泊まりたかった泊まれる本屋ホテルをBooking comでとりました。そこにはシチリア島へ行った時の予約履歴が残っていて、締め付けられる思いがしました。

 

ところで私達は、燃やしてしまった家に帰ることはできるんだろうか?

 

きっとそれはできないんだな。

環境も、何より人も、知らずに変わっていくからだ。

 

例えいつかと永遠に隔た世界を歩いていても、燃やしてしまった世界は生き続けて私達を今日も作って生かしていると思える日がくるよ、留学とその後の日々のアップダウンを思い返して、力強く愛しく当時を思います。