Enter The Void

1991, Tokyo. A trader from the country side. Book

Love and death

狩りを終えて葡萄を食べながらこれを書いております。

立ち寄ったワイナリーや、酒蔵が経営しているレストランは古民家的な雰囲気もお食事の内容も最高でありました…また未来の彼女と行きたいところが増えちゃったぞぉ~☆彡

 

そろそろ運営から二月となるこのブログも、近頃安定してアクセスいただいているようです…こんなみょうちきりんな独り言に大変ありがたいこと…そして、おかげさまで、ブログを始めたころに心の中にもっていたメイントピックは語り尽くした気がします。

 

The best offence is the best defence.

 

私の攻撃は現在と未来の悲しみを堰き止める為の防御なのかも知れません。

これからも引き出しを変えながら続けていきたいと思います。

 

 

 

さて、私には眠り方を忘れることがあります。

何故なら眠りは意識を失うことで、継続期間の差はあれど意識に起こっていることは死ととても近い気がしてしまうのです。

毎日毎日目が覚めることを信じて小さな死を繰り返しているって、考えてみれば凄いことだ。人間はこんなに高度に知能が発達しているにも関わらず、一体どうやって自分たちが先の保証を受けていない野生の生き物となんら変わらない存在だという恐怖を忘れているのだろう。

 

そのひとつには、私達人間だけが持っている”物語”が背景にあるのではないかな。

 

今日までに古今東西に何億という物語が生まれては滅び、私達人間のドラマはかくかくしかじかと教えられて、刷り込まれて来ている。

私達の人生は紆余曲折の物語として認識されているから、生き物としての有限性がストーリーのなかに沈んでいるのだと思う。いつまでにこんなことを経験しておくべき、という大まかな価値観が人類に共有されているのも恐らくそのせいだ。

 

ストーリーを築いて継いでいけるのは人間だけ。

 

だけどきっと動物の様にただ潔く死んでいくという人も世界に無数にいたはずだし、今もそのように日々を暮らしている人々がいるはずだ。「自分はただの生き物でしかない」と感じている人間はいるはずだ。恐らくそういう人々にとって「人間」という特殊な生き物にしかないストーリー、文脈のなかで生きるよう強要されるこの現代社会は強烈に意味不明な監獄に見えているに違いない。

 

しかし私は子供のころから強迫観念的に死について嘆いている。

不幸なことに私は二十三日に二十八の誕生日を迎えてしまうのだが、その時を愛猫との銀婚式にしようと決めていた。私の愛する妻が今年で十歳で、遠からず死んでしまうなんて信じたくない。受け入れ方も、幸福の形もちっとも分からないでいる。

悩んでいるうちにお陀仏しちゃいそうなのである。

 

もしかすると愛する人と抱き合う瞬間は一瞬だけ時間軸の次元から抜け出せるのかも知れない、と昔から淡い期待を抱いたりする。結局そうまでに幸せな愛の瞬間や、性の形はこの年になっても知らないままで、自分のどこか一部分は子供のまま大人になってしまったような気がする。ぶっちゃけエロエロ楽園のダンサーさんにチップ渡しているとき幸せなんですけど。お金の触れ合いが清潔な気がしてきているんですけど。

中高生の時に早々手放してしまったなにかが、そのまま育たないでいるみたいだ。男とも女とも育ってないままのなにか。

 

 

 

はあ、でも今は、沢山シュバッとキメなきゃならないことが山ほど転がっている。

まずはそこをバシッとキメて、いい女になりますよ!

 

そんなとき、楽しそうに演奏する彼らの姿は素晴らしい起爆剤です。

なんなら笑いを狙っているのかと疑いたくなるほどチャーミングな様子で歌う彼らのグルーブ、観終わるころには笑顔で踊っているよ。おすすめです。

 

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