Enter The Void

1991, Tokyo. A trader from the country side. Book

ひとりぼっちの部屋のなか

ここ数日ホットだったトピックは総じて連休明けの仕事終わりにふっと珈琲片手にアパートから雲間を除く様な創造性と安らぎとは程遠く、直球で書くには流石に躊躇われるくらいだ。

 

政教分離なんて遠い世界の戯言としか聞きとれないであろう暴力と陰謀の中東の国々では、飽きもせず敵の資源を狙ったテロが起こる。そして、狭い狭い平和なこの国のゲイリブでは、”SNSにアップロードされた個人の写真の肖像権を巡った”ジハードという体をとって、”オタク”と”パリピ”の骨肉の争いが起きているのであった。

 

狭い狭い世界では毎週、毎月、決まった人々と顔を合わせなければならない。

そんな世界ではどうやら決まった口調、決まった文章構成で同じ周波数を発し合って「つながる」らしい。

条件の良い人間でも清潔に型にはまれる人間でもなかったせいしょうか、私は昔からどうしようにもそんな書き込みの波の中に個々人がもっているはずの筋、理を見出すことができなかった。結局耐えることができず、そんな周波数はもうてんで拾わないラジオで生きて何年でしょうか。

心身面健康~経済面自立~昼職~等、ちょっぴりお笑い草にすら思える恋人募集の条件に合致する・しないの網目の大きいことったら。そこに個人も個性もない。

 

不動産を探すようにチェックボックスをクリックして都合の良い人間を探している人間が本当に誰かと互いを見つけ合って関係を築くことができるなんて、私は思わないのであります。

 

 

けれど、そんな記事を書いている私はまさに、確実に、何年も、思う様にいかない現実に苦労しております。(笑)

アラサーの大台に乗り、今や仕事を離れたら友達と幸運にも誘い合わせでもしない限りてんでひとりぼっちで、同じ一日の中でもてんでばらばらのでたらめの方を向いているような暮らしです。私の心のなかには沢山の義務と、焦りと、情熱とかすかな希望でいっぱいで、どちらか一方を向いているという幸福を味わうことができないのです。

常に追われて、常に転んでいます。(病院とだって本当は切って離せないのにね。なくてもこうして暮らしてはいけるけれど。)

 

 

けれど、そんな私が最近良いなあと思ったのはやっぱり、読書会やバーでの優しいコミュニティと言うものでした。小さな共通点、小さな符号、奇跡のようなタイミングで集まって、やがて互いの個性が小さく光り合うような時間になっていく可能性を秘めている。隣にいる人が楽しんでくれるといいな、というのはいつも小さな願いで、基本的に無口な私は忘れないようにしたい心がけだ。

 

どうにも投げちゃいたいときなんていっぱいあるんだけどね、もうちょっと色んな光に揉まれて成長したいなあ、と、転んでも転んでも惨めに這いつくばるかの如くComfortable Zoneを出るだけは出ようとしているのでした。