Enter The Void

1991, Tokyo. A trader from the country side. Book

虚無への供物

そういえば、"Enter The Void"のVoidは空虚・虚無という意味であることを思い出した。今日も今日とてnothing 読む価値のブログですみません。ストリッパーの妹を偏愛するにいちゃんがでてくる映画からなんとなく拝借したタイトルだったので普段はあまり意識していなかったよ。クロスオーバーしたのは勿論、あの頃大好きだった先輩の卒論のこと。

 

私は今、彼女のVoidの答えこそ知りたいのであった。

 

「いけない」と思いつつ買ってしまった紙巻き煙草に火を灯しながらこの記事を書いている。今日のわたくしにとってはこの無為こそがVoidへのEnterですよ。

 

 

さて、私にとっての空虚感はなんだったかしら。と、近頃のあれこれを思いながら考えていました。あっちでコネコネ、こっちでコネコネ。進んでいるのか下がっているのかも分からない匍匐前進でもどうやら本人にとっては価値があったようで、華やいだ金曜日の夜に汚い部屋でひとりこんな記事を書いていても、もう私はあまり虚しくない。読むことも、英語も、働くことですら、私の不思議な友人だ。

 

各国のお偉いさんとシャレオツな丸の内のお店で解散した翌日水シャワーを食らったあの日から、私もまた”空虚感”という名のブラックホールを安トタンでふさぐべく金づちを振り上げてコンコンやっては虚しく吹き飛ばされていたに違いない。

 

それは勝ち目のない負け戦に違いなかったのだけど、しかしどうやらブラックホールと人類の無謀な格闘の勝敗を分ける最も重要な因子とは「例え負けると分かっていてもその穴の存在を勇敢に認めて自分の意志で塞ごうと試みるその挑戦という名の自愛」にこそあるようだ。(長い一文)

 

私は肺呼吸をする。だから、溺れながら水槽で楽しく泳ぎたいとは願わない。水辺の生き物は水で、地上の生き物は地上で生きればいい。自分の思う場所は作ればいい。えらが欲しいとは願わない。自分の足で歩いていきたい。世界を回りたい。