Enter The Void

1991, Tokyo. A trader from the country side. Book

みんなの強くて弱い場所

近頃 妻(猫, 十歳)を亡くす夢を立て続けに見たのです。

 

昔から夢占いと星座占いだけは思い出した様に覗いて愉しんだりしているものですから、つい先日実家で思う存分愛し合ったばかりのキュートなあいつを亡くす夢にユングが込めた意味が気になって、Google先生に聞いてみた。

 

 

曰く、愛猫が死ぬ夢は目覚めの悲嘆の深さに反して”幸運の遣い”だそうだ。

 

 

勿論実際に飼い猫を失うことを恐れている時にも見る夢だそうだけど(実際に今の私がそうだ。)、長いこと抱えていた問題が解決したり、幸運が訪れることを知らせているらしい。夢のなかとは言え、死んでまで人間に幸せを知らせてくれるなんて、なんて殊勝なヤツ…ネコというやつがもっと愛しくなりましたよ。ちゅちゅちゅの刑だ。(なんか違う)

私の晴れの日をお前が知らせてくれて嬉しいよ、嫁。むしろ、私はおまえ以外にそんなに大切なことを知らせて欲しくなんてないから。

 

 

さて、私は最近ひたすら「読書周辺」のことにお世話になっております。

 

読書会に参加して驚いて、考えて、聞いて、話して、笑って、元気と希望をもりもり頂いてきたり。自分自身もブック・クラブを組もうと密かに画策しながら相変わらずのゴッサムの街並みをムフフと歩いたりしています。本周辺のことが私の人生のサイド・ウォークを力強くしてくれているのです。

 

今日は「夜の読書館」という不思議で素敵な夜の催しをひっそり下町方面で営んでいるカフェにお邪魔してきました。そこでは電波も会話もオフにしてひたすら本と向き合うことが習わし。ほんのり瞑想的。だけど、生命力のあるカフェなので是非行ってみて欲しい。

 

 

本当は誰にだって雨の日も、晴れの日もあるはずだよね。

決して「強い人」と「弱い人」がいるんじゃなくって、私達には強いときも弱いときもあるとつくづく思う。

 

人間は、特に日本人は、誰かを形容する際に名詞を好みます。「無職」「メンヘラ」「ブス」「底辺」「無能」「低学歴」「ハイスペック」…なんでも良いですよ。ただの移ろいゆく状態像でしかないものを、あたかも恒常的な存在の様に取り扱ってあっという間にスティグマにしてしまう。

 

そんな風に限られた概念の世界で相手も自分も眺めている人たちにとって世界は窮屈なんじゃないかな、とたまに哀れに思ってしまいますが、恐らく一般的に哀れまれているのは私の様に世界を仲間と同じ様に眺めることができなかった孤独な「変人」の方なのでしょう。

 

でも、良いのです。

 

 

私は強くて弱いみんなの場所を作りたい。

点字で読んだ人も、オーディオブックで読んだ人も、今はなんの名刺ももっていない人も、気兼ねなく来れる場所が作りたい。山あり谷ありの人生のなかで、谷の不遇な状況に陥ったとき、「今の私は駄目だから…」と訪問をためらってしまうような場所じゃない。そういうときにこそ、ふっと隙間に来てもらえるような、そんな場所がいい。

 

私達は将来どんな災厄に遭うのか予測不可能な世界に生きているのだから、病気で働けなくなることも、布団から起き上がれなくなることも、目が見えなくなることも、足が使えなくなることだってあるはず。全員平等にあるはずなんですよね。

 

誰にでも起こりうる不幸に目をつぶって排斥してしまうクラブ、もしくは過剰に抱き込んでしまうクラブではなくって、雨の日も晴れの日もみんなで優しい時間が過ごせる居場所があった方が良いと思うのだ。

 

 

私はみんなが強くて弱くなれる場所を作って、だからこそそんなクラブが弱くて、繊細で、強い場所になっていけば良いなあ、と…

 

 

壮大な構想ではなく妄想を抱いています!青年よ大志を抱く!