Enter The Void

1991, Tokyo. A trader from the country side. Book

文化の同一性障害

新しい月がやってきた。

今日は久しぶりに仕事のこと、問題の同僚のことを書きたかったのだけれど、夜も深まった時分では少し骨が折れるのでまた次回。恐らくは間接的に障がいというものに触れるデリケートな記事になってしまうことだろう。その方なりの目線で必要とあれば私のことをdisrespectすることもできる「強い人」、(つまり咀嚼抜きに傷ついてしまうリスクのあるデリケートな状態にある方には読んで欲しくない)にしか読んでいただきたくないので、その旨はきっちり明記するつもりだ。

 

 

さて、月といえば、先日浅草で参加した読書会でモームの月と六ペンスを紹介した。

画家のゴーギャンから着想を得た小説といった風で、ちょうど海外留学前後に読んだので特に印象的な本だった。一般人のモラルが一切通用しない狂人的な天才画家ストリックランドの数奇な人生をみなさんとお話しするにあたって、文化の同一性障害という言葉を使って印象的な箇所を個人的な体験と合わせて紹介したときに、同世代の女の子がそのことにとても興味をもって質問してくれた。

 

「それは海外に行ったことをきっかけにある日突然気が付くものなのですか?どんな風に気が付くものなのですか?」と、文化の同一性障害という言葉をとても面白がってキラキラ尋ねてくれて、とても嬉しかったのだ。

 

例えば性同一性障害も、ある出来事をきっかけにある日突然女が男になっちゃうわけじゃないと思うのです。元々その方が土壌に持っている性質が日々の小さな世界とのすれ違いを経験して、やがて本人が抱えて生きてはいけない程の違和感や失望感が蓄積していく様な気がしてならない。確かに具体的な環境の変化をきっかけに一気に確信にいたることはあるかと思うけど、多くの方にとって「同一性障害」は日々の違和感と孤独の積み重なりの果てにあるんじゃないかな。生まれた場所、生まれもった体の形とはまったく別の形をした魂をもって生まれてしまうことがあるのだと思う。

 

月と六ペンスのストリックランドも恐らくそういうヤツで、ありとあらゆるものを繰り返し捨てて放浪するなかで、遥かタヒチという地にようやく安息を見出した。私は月と六ペンスを読んだころ、私の”タヒチ”へ行きたくて仕方が無かった。

 

予約が済んでいる分だけでも3件の読書会に参加する今月。またどんな出会いがあるものやら楽しみにしています。いつかは自分もそういう場所作りに着手したいと考えているので、そういう思いをもってして参加してみると、参加者のみなさん、主催者のみなさんのキャパシティ、企画力、何よりもその思いやりを尊敬するばかりです。

 

ゴッサムはお世辞にも美しいところとは言えません。正体が滲みでてしまった「社会人のコスプレ」をするくたびれた険のある人間であふれかえっています。嫌な言い方だけれど、あえて分かりやすく表現するならば港区ではお目にかかることが非常に難しいカラーの人たちが暮らす場所だと思う。でも、最初はあえてそこでやってみて、そこから下町へ移っていこうかな、なんて妄想してます相変わらず。