Enter The Void

1991, Tokyo. A trader from the country side. Book

心と言葉の距離

今日は朝から私にしては珍しく本音と思われるようなどうでも良い嘆きがわんさか親指に宿りそうでありました。この記事を書きだした今では忘れてしまったようなどうでも良いこと。ああ!思い出した!「私はこの電車に詰め込まれて無為にTwitterを見ている時間が人生で最も嫌いなのに」と呪詛を書きつけたくなったのであった。それにしてもいわゆる本音と実際のアウトプットが直結している状態とはこんなにも心地よいのかと驚く。半面「普段どんだけ私は加工されてんねん」とぎょっとしたりした。わっちは書きながらなんとか生き延びよう。その決意を新たにしたぞ。w

 

先日は学生時代の言えない気持ちを卵とじ~お弁当につめ~…てはないけど心にとじこめた経験なんかも書いたけれど、書いて初めて当時のホットな問題もクールになったのだと気づいたりする。反対に、ホットなことをクールに書くというのは非常に困難な道のりだ。私達がクールに書くことができるのは、猫舌でも飲めるくらいにスープがほどよく冷めたころなのだ。

 

そうして思うのだけれど、恐らく読書会というのお互いのホットなプロブレムをクールダウンさせることができる凄い空間かも知れない。私達は本を通じて本の話をするのは勿論、個人の話も世の中の話もする。ある事象をこれまでにない角度で論じ始めたり、そんな気づきにみんなで水をやったりできる。そんな過程で一人では乗り越えられないかのように思える私達の脳みそのエラー、あの憂鬱な堂々巡りも、読書会は集合知とナラティブの優しい力で案外サクッとクールな記憶に変えてしまうかも知れない。

 

 

私達の心と言葉の間にはどれほどの距離があるのだろうか。

 

ある人はSNSにすべてを書きつけることができるだろうし、ある人はLINEで友達にすべてを垂れ流せているかも知れない。手段や頻度の差はあれど、心と言葉の距離を必要に応じてゼロにすることができたら。そんなスキルがあったなら、私達の心の躓きはどれだけ楽になるだろう。心と言葉の距離をつめるスキルは大切なのだ。…と私に言いたい。

 

 

私が今日心と言葉の距離をゼロにしたならば、何を書こう?

生憎、到底人様にお出しできそうな安全なものは出てこないのであった。