Enter The Void

1991, Tokyo. A trader from the country side. Book

悲喜こもごもは浅草の路地から

突然だけど、私は「二十七歳」を無駄にした。

どれほど多くとも百回来やしない、人生の貴重な一年間。

そんな時間を手から滑り落としていたあの甘く停滞した若い日々の中で、私の悲喜こもごもの舞台は東京タワーの片隅だった。

 

 

(今日はお仕事のつれづれ独り言です。すんません推敲ゼロの書きっぱなしです。)

 

 

 

二十六歳で短い留学から帰って、ようやく憧れていた仕事に就いた。

外資本の貿易商社の敵は世界中にいた。読み書きに関する限り公用語は英語で、みんな青いペンを使って英語でノートをとっていた。初めての朝礼で生まれて初めて宇宙語を聞いた。確かに意味の通った英語が聞こえてくるのに、なにを言っているのかまったく分からなかった。みんなは巨大で得体の知れないビジネスの話をしていた。

 

オフィスは若々しい人工的な緑とスポーツのグッズに溢れていた。

絶え間なくパートナー企業の社員が来日しては駐在していた。田んぼしかない町では見ることも叶わないお店へ次々と連れていかれた。

 

私があの会社で最初に経験したことは到底泳ぎ切れる気がしない畑違いのビジネスの世界は入ってしまった自分の無謀な現状への絶望感と、アメリカ人からの執拗なセクハラだった。

 

 

ふう…そんな日が遠い。

 

 

 

 

なにを始点にしたら良いのか分からないけれど、私の冒険のはじまりは浅草の路地だった。前職に入社して一年目、突然本社営業部に異動になった。どうしてそんなところに感じが良いだけの素直な小娘が異動になったのか、誰もが納得できず驚いていた。

 

ちょうどベテランさんがどっと抜けたあとだった。

本社には社長がどっかから引き抜いてきた窓際族のおっさん達あふれかえっていて、妬み、不満、憎しに溢れて息を吸うのも苦しいくらいだった。

 

それまで元気だけが取り柄の体育会の営業マンだったのが、突然社長の側近になった。五分に一回呼び出されるような日々だった。彼は抗うつ剤を飲んで、突然叫びだす人だった。彼は従順な側近を求めていた。「好きなだけ頼れて、どれだけ殴っても逃げ出さない、まあそーこそこ仕事もできる都合の良いヤツ」だ。悲惨な状況にあった当時の本社で、スケープゴートに選ばれたのが私だった。

 

会社全体の物流の進捗やら見通しをマネジメントして報告する役割として、既存・新規顧客の営業も並行した。

 

しかし、私の後の上司にあたる部署の先輩は、長時間労働を会社貢献だと思ってアウトプットがまったく雑魚い典型的日本企業の初老だった。部署に割り当てられていた新規営業にも行かず、露骨に私を嫌っていた。

 

「社長に呼ばれるのはもう俺じゃなくてあなただから」と、憎しみの理由を隠す恥じらいも持ち合わせていなかった。彼は新規営業に行かないのは俺が部下をマネジメントしているからだ、と言い訳が必要だったので、なんとか私を理由にしようとしていたのだ。

 

 

 毎日全身が鉛の様に重かった。

誰も仕事が分からない、教えられない、教えようとしなかった。

 

 

しかしそんなこんなで半年も過ぎると、ヘタも様になってきた。

おおよそ物流の動きが予測可能に思えて、必死に電話で交渉してきた客先、各拠点とも、なんとなく阿吽の呼吸ができてきた。数tの損失の調査や交渉を任せてもらったことも、当時は頭が真っ白だったけれど良い思い出だ。

 

くだんのダメ上司が人様とまともに喋れないせいで撒いてしまった情けないケンカの火種を後日消しに行ったのも、懐かしい記憶である。私が退職する頃には、自作の引継ぎ資料が数十ページになった。

 

…と、ありがちな自慢話はさておき、本題はここからだ。

 

 

私は前職も商社だったのだけれど、会社は一応「貿易」をしていた。

製品の輸出を担当できると聞いたときは、それこそ身の丈に合わない役回りが来たなと思ってワクワクしたものだった。しかしその実際のところは、「貿易」をしていたのは私達から買い取った製品を世界へ流通させている国内・外資貿易商社さんたちの方で、私達はただ為替と市況をちょこっと見て商社さんに販売する量を調整するくらいのものだった。たまに謎の英語の貿易書類に社長のサインをもらって送るくらいのもので、あとは日本語で事足りた。

 

 

私が出会った商社さんたちというのは常々パワフルでフレキシブルだった。

お会いするたびに私には想像もつかない世界の市況の話をしていた。オーストラリアはああだ、中国はこうだ。眩しかった。死ぬほど格好よく見えた。彼らは知的でパワフルで、個性的だった。生きている世界が違うと思った。決してたどり着けない世界に思えた。籠のなかの鳥だった私にとって彼らの仕事は喉から手が出るほどうらやましかったのかも知れない。

 

 

そんな日々のなかで、ある日社長が浅草、銀座の外資商社に私を連れて行くことにした。ショッキングだったのは台湾人の女性社長との出会いだ。スリムでファッショナブルで、話し始めると止まらない。「子供をもって働くということができるということを知らないでしょう、なんでもできるって知ってましたか?あなたなんでもできるのよ。あなたをここに連れてきたってことは、社長はあなたに期待をしているのね。」と力強く諭されたのを覚えている。

 

今会社の先輩たちは、「期待して連れてったばっかりにDanちゃんは夢を見つけてこっちに来ちゃったんだねえ…」と前職の社長を哀れむようなことをいう。

 

 

 

今だから正直に言えることは、世間知らずの坊主だった私は、やっぱり苦しさと同じくらい異動自体は誇らしかったということだ。

 

今の会社に入るまで、「規模の大きい」「管理的な」仕事ができていると勘違いしていた。転職をして初めてその情けなさを理解した。私たち蛙が前の会社でデカい顔をしてやっていた仕事なんて、今の業界、会社にとってはちっぽけで、単純で、小娘がハンドリングできるような規模のお話だったのだ。くしゅんっで終わり。

 

 

誰がが自慢に思っている仕事を誰かは小指で動かせる。

 

 

誰かが鼻高々に、もしくは命をかけて動かしたお金なんて、誰かはくしゃみで動かしちゃう。

 

 

そんなもんだ。

 

 

 

 

私は二十七歳を無駄にした。

 

 

ただ、世界と、自分と戦いながら無駄にした。

 

それだけは胸をはって言える。

(最近辛い案件が日々クローズしていくよ。いっぱいおっぱい僕元気ぃ。)