Enter The Void

1991, Tokyo. A trader from the country side. Book

Be The Super Hero

せっかく"I"と"You"なのに、それを"私"と"俺"にする必要なんてございません!

(私の世界では私と私よ!)

 

 

 

 I've been reading books of old

(随分沢山の古い本を読んできた)

The legends and the myths

(伝説、そして神話の数々)

Spiderman's control

(スパーダーマンが操る自由自在な力)

And Batman with his fists

(バットマンの逞しい拳)

And clearly I don't see myself upon that list

(私にははっきり分かってる、そのヒーローたちのリストに私は載らないってことを)

 

But she said, where'd you wanna go?

(けれど彼女は私に言ったんだ

あなたはどこへ歩いていきたいの?)

How much you wanna risk?

(どれだけのリスクをとってやるつもり?)

I'm not looking for somebody

With some superhuman gifts 

(私は神様に愛された特別な誰かを求めてるわけじゃないの)

Some superhero

(私が欲しいのはスーパーヒーローでも)

Some fairytale bliss

(おとぎ話の至福でもない)

 

Just something I can turn to
Somebody I can kiss

(ただ、そっと寄りかかることができて、

キスできる そんな誰かを待ってるの)

I want something just like this

(私はただそんな存在を求めてるの)

 

 

 

www.youtube.com

 

女子同士として訳したら、尚更良い歌詞だなと思いました。

 

 

(ヒーローにならなくていい、ただ愛し合いたいなんて曲を訳すとは、なんて今日の記事に矛盾した始まり方…)

 

 

 

 

 

考え続けなければならない、中の人が本当は絶対に苦手なことーーーーー主催者になるのなら、それに向き合う必要がある。朝の静かなファミレスでいやに卵臭いスープに胡椒をふりかけているとき、本を積み上げているおじいちゃんを目にしました。湧きあがる静かな感動。

 

 

 

これ、イケますわ。🌹

 

 

 

期待はしていなかったけれど、案外イケるのかも知れない、ブッククラブ in ゴッサム

遂に日程を決めて呼び掛けたけれど、今のところ申し込みはZeroである。

ちなみに参加者0でも、オンリー主催者だけ読書会をファミレスで開催して、レポートだってあげてやるつもりだ。朝の読書をファミレスで楽しむ人たちの目に留まって、飛び入りくらいの勢いで参加してくれるようになったら嬉しい。(笑)

 

勢いで中の人になってみて早二週間、オープンな場を作って人々に呼びかけることには責任が伴なうのだなあと感じました。パブリックに開かれたTweetは瞬く間にインプレッションを獲得して、良くも悪くも人目と反応に晒されることとなります。そこが人々にオープンに呼びかけられた会である限り、中の人の好き勝手になんでも取捨選択するわけにはいかないのです。線引き・スタンスを明瞭にして取り組むこと。そして、清濁併せ呑む覚悟はある程度要求されるでしょう。

 

実際の場でも、そこに人が集まる以上は摩擦や予期せぬトラブルといった困難の生じるリスクと板挟みです。読書会で居心地が悪かった・こんな人間関係のトラブルに悩んでいる、という愚痴は、まあポロポロっとよく零されております。けれど、私が悲しいことは「苦しい」と愚痴を零している方の口から、「だから好きだった読書会から足が遠のいちゃったんだよ」と聞くことでした。「合わなかった」と感じている方がしゅんと肩を落として自分を責めて引きこもりがちになるだけじゃ寂しいし、それはアンフェアで筋も通っていなくって。

 

合わない人、場所があるのは誰の良し悪しでもなく当然のことなのですし、嫌な目にあった上に誰かが「居場所を失った」と感じるのは、なんだか違うなあと感じます。もちろんこれってその方々の心の内側の解釈の話で、私が文句をつける次元ではないのです。それは大前提なのですけど、その解釈って果たして本当に当人だけの問題でしょうか?仕組みは・構造はどうでしょう。マイノリティが排斥されやすいのは世の常ですから。マジョリティ側にそいういう構造がなかったと本当に言えるのでしょうか。

 

私はみなさんの選択肢のひとつを自分なりに増やしたかったので、別の場所が合わなかったんだ、という話を聞くと、「そんなあなたの為にもここがあるのよ!」と思わず感じてしまいますね。(笑) 他所で合わないなら違うところに逃げるだけで良いんだよ、と思っているのです。もちろんこれは程度問題で、いわゆるトラブルメーカーで人と齟齬を起こしやすい方の場合は話は別ですが。(笑)

 

 

ただ、ここまで書いたこと、今日まで書いてきた私が理想とするものごとって、実は一瞬で矛盾対立する脆い理想論です。

例えば、私はできるだけ誰も寂しい思いをしない優しく多様性のある場所を築きたい、弱い日も強い日も羽根を安めに来て欲しい、とずっと言っていますよね。けれど。もしも心地よい場所を作ろうと思ったら、それを邪魔立てするリスクのあるものはなるべく排斥する必要がある、とも言えませんか。

 

例えば人の話を聞かないで延々と自分の話をする初老のおじさんがいたら、どうすべきでしょう?年功序列女性差別が強くて、ほかの参加者さんをリスペクトしない方がその場にいたら、どうすべきでしょうか?やっぱり主催者というのは、その場の許容範囲、正とされるべき価値観を示すリーダーシップをとる必要があるのでしょう。心地よい空間の為に、スクーリング・区画整理をする必要に迫られる可能性を背負っていると思います。たとえすべての人にとって対等でオープンな場を作ろうと願っていたとしても。

 

例えば私の提案した会がつまらなくって、「つまらなかった」「合わなかった」と帰っていく人がいたとしても、私はそのことを改善したいと願うだけで無責任だったとは考えません。けれど、会に出てがっかりした、誰も助けてくれず傷ついた、リスペクトされなかった、思いやってもらえなかった、という方がいたとしたら、それは主催者の私にかなりの責任があると思います。ほんの少しの工夫や思いやりで、「がっかり」ほどの強い感覚はなくなると思いますからね。

 

 

考えることは山積みなんですけど、ぽつり、ぽつりと各地にファンを増やします!(笑)

私は実は路線を細かく決めずにいこうと思っています。形式も、ネタも、主旨も、ばらっばら。バラエティ。けれど、大きなカラーと価値観はなんとなくあると。ゴッサムさんが思いつくことは毎回面白いし趣味に合う!と思って欲しいかな。(笑)