Enter The Void

1991, Tokyo. A trader from the country side. Book

涙の分だけ賢くなる仕組み

私は近ごろ少しだけ早く目を覚ます。

やっつけ海藻スープの朝食をきちんととってから家を出たいから。そして何より、少しだけ空いている早い電車で職場に着いて早めに仕事に取り掛かりたいからだ。そうして地道に捻出した時間に一時間以内の残業を加えて、飛ぶ様に一日が終わる。それが何がどうして今朝の通勤列車の中で頭書の件を思いついたのかサッパリ分からないが、「そうだ、これからは悲しみの分だけ何かを足したらどうだろう」と唐突にひらめいた。

 

まあまあ、失恋した人間が忘却の彼方へ消えゆく為だけに何かに没頭するのはよくある話だ。私の謎の心の悟りもそれと似たようなものなのかも知れないが、失ったものの重量と同じだけ何かに取り組んで英単語のチャンクや筋肉が増えて、人生の+と-の天秤が釣り合う姿を思い浮かべるとそこに強烈な曲線美を感じたのである。

 

あるケーブルから電流が流れる。同じだけの電流、もしくはそれ以上の電流がきちんと出口から出力される…アウトプット良好。悲しみの分だけ何かを足さんとする作業は無謀にも思えるが、それは人生の配線図が美しく機能している状態に違いない!面白いからこれからはそういう気持ちで生きてみよう。(自己満足自己完結)

 

近ごろはこんなふうにウィットもクソもない壁打ちしかしておりませんが、文字通りちょっと心身のビタミン不足を感じております。私がここ最近書けないのは病み上がりにブイブイ無理して働いて、ちょっと元気がないからで、感性のアンテナ具合の浮き沈みも仕方がないよなあと思ったりなんだり。なんていうんでしょう…カロリー不足ではないんですよね。きちんとカロリーは入っている。でもなんだか栄養がない。甘酸っぱくない。元気がでない。コーンフレークで生きている。そんな感じなのです。

 

その反面、どんなに憎たらしい町だろうと住居だろうと、今ある暮らしを慈しめるということは幸福なことで、そこに感謝することが大切だったのだと、やや優等生気味な真理もシミジミ実感いたしました。ビタミンもクソもない水拭き、カビ取りみたいな行為こそが暮らしであって、そんな余分に思える時間が自分を励ましてくれることもあるんだなあ。

 

「いわゆる大人」に一歩近づいた一月だったかも知れませんね。

災い転じて福となす。

 

読書を楽しんで眠ろう、今日も。